明治8年(西暦1875)頃の県内の神社を淡彩で描いた絵図54枚が青谷町の民家で発見され、平成23年7月に県立公文書館に寄贈されました。
その内2枚に当社と(西)樂樂福神社の絵図が有りました。
この絵図は当時の鳥取県及び明治政府が神社の所在や境内建造物を調査する為、複数人の絵師に描かせたものと推定されます。
境内の様子をご紹介します。 写真をクリックすると拡大します。
大石段を上がりきると、ようやく石鳥居が姿を現します。
第二の難関15段の階段を上がりましょう。
石鳥居の後方には雌雄一対の「櫟 イチイ」の木が繁っています。
9月の終盤になると石鳥居向かって左の櫟(いちい)の木に赤い実が付きます。赤く甘みのある実は昭和40年代頃までは子供たちが盛んに口にする秋の実りのひとつでした。
但し、種子にはアルカロイド系の毒が含まれているので要注意です。
平成21年元旦に二対(四基)が奉納されました。
奉納された方は地元日南町宮内の出身で、大阪府で起業して成功された方です。
平成10年に改築。
杉玉と破魔矢が飾られています。
この手水舎の屋根と柱の建立も上記の地元宮内出身の方にご奉納頂きました。
この石は、鬼林山(きりんざん)に陣取る鬼が、対峙する孝霊天皇の軍勢にめがけて鬼林山から投げつけたとされる石塊です。一抱えもある石に残る鋭い溝は鬼の爪痕と伝わっています。
力石は古代の石占を起源とする説も有りますが、当社の力石は近世の頃から怪力豪傑を競うため、全国の社寺の境内や集落の広場などに置かれたもので、力自慢の男達がそこに集まってたびたび力比べに興じながら、身体の鍛錬をした名残の大石です。この力石は当社に合祀された厳島神社(矢戸)の旧境内地から、保存と伝承のため持ち帰ったものです。
昔から子供の夜啼き封じや子育てに御利益がある荒神さんとして参拝者を集めています。
かつては車参道の途中に鎮座されていましたが、参拝者の利便を考慮して平成17年12月に境内に遷座されました。
新車・バイク等の祓い清めをする斎場です。
交通安全の祈願祭を社殿で斎行した後、執行致します。
初秋には金木犀の甘い香りが漂います。
随神門まで真っ直ぐな参道が続きます。
奥の建物は神輿を収納する土蔵。
手前は参拝者用のトイレで、上記で紹介した宮内出身の方に平成22年元旦付けで建立奉納をして頂きました。
神輿蔵を過ぎると左側に社殿が姿を現します。
季節なると右側には桜が咲き競います。
初夏の新緑
晩秋の美しい紅葉。
紅葉が落葉すると、参道は赤い絨毯(じゅうたん)が広がり、踏み頃となります。
当社の紅葉は目で楽しみ、足でも愉しめます。
随身門の前、銀杏が落葉すると黄金の絨毯が金運を呼び込むように広がります。
真冬には美しく雪化粧。
冬の真夜中は墨絵のような趣です。
随神門の正面には福を招く大福杉玉が飾られています。
杉玉の下をくぐって大きな福を授かりますように。
この大福杉玉は当社総代を務める方が参拝者の開運招福を願って作成し平成24年元旦に奉納されたものです。
平成25年4月、地元の(有)澤田建設よりコンクリート材をご奉納を頂き、総代会長が経営するキヌタニ工業の従業員によりコンクリート製の敷石が施工されました。
拝殿正面 。 平成20年に奉納された狛犬が出迎えます。
拝殿の正面に立って上を見上げると、当社の神紋「二重亀甲に樂の字」の彫刻がご覧になれます。
「樂」の文字が今にも踊りだしそうな図案です。
主祭神に「孝霊天皇」をお祀りする関係で「十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく) 」も神紋として使われています。
拝殿には金運上昇と開運招福を願って瑞雲に留まる
「樂樂福来朗・樂樂不苦労」が飾られています。
元旦と5月1日を除く、毎月1日(朔日)午前7時より月次祭を斎行して皇室の御安泰と国家国民の繁栄・氏子崇敬者の家運隆昌等を祈念致します。
(都合により斎行時間を変更する事があります。)
令和5年9月5日より幣殿の祝詞案と祓案を立礼用に変更しましたので10月1日より月次祭の祓詞と祝詞を立礼でお仕え致しました。
恒例の大祭や小祭の日を除く、毎日午前7時より日供祭を斎行して皇室の御安泰と国家の繁栄、日頃の御守護に感謝しつつ今日1日の平穏無事を祈念致します。
(都合により斎行時間を変更する日もあります。)
令和5年9月5日より幣殿の祝詞案と祓案を立礼用に変更致しましたので9月5日の日供祭より祓詞と祝詞を立礼でお仕えしています。
拝殿内より本殿 幣殿を望む。
春・秋の大祭には日南町産の食味の良い白米 玄米のほか山海の珍味をお供えして厳粛に祭典を斎行致します。
本殿外陣の丑寅(東北の隅)の位置には孝霊天皇が退治された「牛鬼」(うしおに・ぎゅうき)が鬼塚社として祀られています。孝霊天皇の皇子神である大吉備津彦命を祀る岡山市の「吉備津神社」の本殿内の艮(うしとら)の位置には命によって退治された鬼の首魁「温羅」(うら)が艮御崎宮として祀られているそうです。共に主祭神によって退治された鬼を本殿の東北の隅に祀っている事に共通した信仰の形態を感じます。
当社の本殿は三間四面(18畳敷)の豪壮な造りで外陣・
内陣・内々陣と三つに区切られています。
内々陣には御神霊が厳かに鎮まっていらっしゃいます。
このような構造の本殿は日野郡では当社のみの仕様で
日野大社と尊崇されるにふさわしいたたずまいです。
写真の中央に「本殿 幣殿 拝殿」右は「若宮神社」左奥に「彰徳殿」です。
真冬になると境内は銀世界。
若宮神社は孝霊天皇に随従された側近の神々を祀り
二間四面の社殿は摂社でありながら近隣神社の本殿並みの仕様を誇っています。
用語解説 摂社とは本社に附属し、その祭神と縁故の深い神を祀った神社。
唐破風には「龍」と阿吽の「狛犬」の彫刻が施してあります。
戊辰戦争から大東亜戦争までの戦没者の英霊・公職にあって殉職した者の御霊・歴代の神官神職の御霊・無縁断絶した社家の御霊を祀る。毎年6月23日には遺族によって慰霊祭が斎行されています。
祖霊・護国の英霊など87柱
「たたら製鉄」に必要な大量の木炭の安定供給を図り
孝霊天皇のご神徳を補い援ける山の神を祀る。
明治以降は病気平癒や疫病除け(コレラ除け)の神様としても信仰を集めています。令和2年に入り武漢由来の新型コロナウイルス退散を願って手を合わされる参拝者の方が徐々に増えています。
用語解説 末社とは本社に附属し、その支配を受ける
小神社。
木野山神社の左側には大人2人でも抱えられない杉の大木があります。木野山神社の御神木と伝わっていますが、一説には「叶う荒神(かなうこうじん)様」と唱えてこの木にお願い事をすると不思議に良い結果がもたらされる願掛けの木とも伝わっております。
用語解説 叶う荒神は願い事が「かなう」「可能になる」荒神として何時の頃からか里人が盛んに願掛けをしていますが当社の伝承にはその記録が見当たりません。